シャイターンの堝
<堝02 title="主と従">
~01
―― 惨事。
その現状を端的に言い表せば、そういう光景。
その旅館の一室は、あらゆる物が散乱しつくし、窓ガラスには残らずひびが走り、家具の類はことごとく横転させられている。まるで闘牛が暴れ狂った後、あるいは台風一過といった様相
だった。
「…………」
その、惨禍の最中に立つのは、ただただ多ヶ島 典雅、独りだけ。
他の面子は ── 担任教師の川端や、体育教師の黒木や、保健教諭の中田女史など、他数名の教師達は ── それぞれ壁際で寝違えて翌日首の筋を痛めていそうな体勢で、昏倒中。
「もう、ご安心召されよ、典雅様。
妾が側に有る限り、毛ほどの傷も負わせませぬ」
そんな声が、部屋の外から聞こえてきた。得意げな口調の、入り口に立つ金髪の娘。
「俺が悪いんじゃ……ないよな?」
自信なさげにつぶやく典雅の右ほおは、赤く腫れていた。
~02
「── て、ててててて典雅が女連れ込んでるぅっっ!!」
それが、破滅への第一声。
そもそもの始まりはさらに少し遡った、本日、修学旅行3日目の早朝。朝目覚めれば、布団の中に見慣れないモノが転がっていたのだった。何だか、金髪でふにふにと柔らかくて、しかしほっそりしていて、しかしながら出るべき所は過剰な程に出ている 『モノ』。
多ヶ島典雅は、寝起きで覚めきらない脳をフル回転。外に放り出して何事も無かった事にしよう、との案を採用し、その実行の最中の不注意が招いた致命的な事故だった。
(まさか、部屋の出入り口で、足を放り出して寝てるバカが居たなんて…)
いくら寝起きで集中力散漫していたとはいえ、いくら入り口が暗くて見えづらかったとはいえ、このミスは致命的すぎた。何せ相手が相手だ。
(── 『注意一秒、怪我一生』 とは、警察も良くいった物だ……)
ふと思い浮かんだ交通標語を渋面で噛みしめる。
その、思いっきり踏んでしまったふくらはぎの主は、次期応援団長。体躯は中肉中背と人並みを大きく出ないものの、流石は応援団。声量は絶大。通常の会話でも音量数が3桁近いと思わせるほどだから、その本気の凄まじさとはなかった。
惰眠を妨害する痛みにつぶれかけた蛙のような悲鳴と共に飛び起き、衝動的に殴りかかろうとした、校内屈指の危険人物でもある彼は、同室の少年が抱えるモノを視認して寸止め。女子供に手を上げないという、見上げた理性は、寝起き直ぐでも働くらしい。たっぷり数秒の硬直の後、殺人的な絶叫が窓ガラスをも揺さぶった。
それからは、狂乱とでも呼ぶべきめぐるましさ。
(── 『蜂の巣を突いたような』 っていう表現は、こういう感じなのか…)
なんだか、独り狂乱から取り残された典雅は、入れ替わり立ち替わりの大騒ぎを前に、どうでも良い事に感心していた。
実はもう1人、平静を保っていたのも居たのだが。すごい身近に。そもそも、『1人』 と数えて良いのか不明だったが。金髪の娘 ―― みたいな何か ―― は大声に弾かれたように目覚め、寝ぼけ眼で周囲を警戒、最後に典雅の顔を見て安堵のため息。首にすがりつて、またも眼を閉じた。どうやら低血圧っぽい。
かくして、竜泉中学2年5組4班男子は、室内に散らばる飲酒・喫煙の動かぬ証拠も押さえられ、揃いに揃って大目玉を食らう事になったのだ。
全国共通、修学旅行の罰といえば、宿の廊下に正座である。
足を痺れに耐えながら、事の元凶に力の限り文句を言ってやる、と心に決めていた典雅であったが、時の経過と共に徐々にテンションは低下。一時間もすれば、すでに怠さだけしか残ってない。時折、思い返したように、
(何でこんな事になったんだろう……?)
空腹で鳴る腹を抱えて自問するが、すぐにうだうだ悩むのが面倒になり、
「―― まあ、いいか……」
と、いつものように簡単に割り切ってしまう。ある意味、お手軽な少年だった。
~03
―― だから、
「何をしておられるのだ、典雅様?」
ようやく目の前にその諸悪の元凶が姿を現しても、典雅は特に文句を言う事もなく。
「見て分からないか?」
「見て分かれば、わざわざ尋ねぬであろうも?」
「正座させられてるんだよ」
「ほう、 『セイザ』 とな? 朝食も摂らずにのめり込むほどとは、そんなに楽しい事なのかえ?」
「嫌味か、それは?
楽しい訳ないだろうが……」
ため息を吐くように答える。期待に目を輝かせた相手が中腰でのぞき込むから、『幸福の白い三角布』がもろに視界に入り、密やかに彼の激昂を収めるのに一役買ったのしれなかった。
と、すると、別の意味で身体の有る部分所が激昂しているのかもしれないが。
「―― しかしお前、その服は?」
昨夜と今朝方の、 砂漠の国のハーレム衣装とは違う、彼女の服装。この 『夢の国の住人』 的な彼女なら、どこからでも出してきそうだと微妙な期待があったのだが。
「ナカノ、と云う娘が貸し与えてくれたのじゃ」
しかし、期待に反し、ごく普通の答え。中野で女なら、典雅の知る限り2・3人居たが、服の系統と性格からして、元クラスメイトの中野こず恵嬢だと直ぐに目星が付いた。
(―― 後で、姉御に礼を言っておかないとな)
そうすると当然、根ほり葉ほり聞かれる事になるとも、想像に容易い。面倒見が良い姉御肌で、そのままのあだ名で呼ばれる女子生徒だったが、同じくらい興味本位な性格をしていた記憶がある。それを想像した典雅は、面倒だ、と内心ため息。
「それで、どうじゃ? 似合おうておるかえ?」
彼女は、どことなく気恥ずかしそうに碧眼を細めて立ち上がると、ふわり、と金髪を揺らして一回転。やはり、女(?)としては気になる事らしい。
典雅は、反射的に頷き、それからようやく注視。
タイトなTシャツ&スカートという出で立ちで、体の線が丸解り。昨日はあまり気にしてなかったが、立派な膨らみに対する腰部は、コルセットで絞り上げているのか、と思う程に見事にくびれ。胸の頂点と胸の底辺の差が素晴らしい。続く、ジーンズ生地に包まれた尻・太股のラインも見事。女性らしく起伏と丸みに富み、しかし要所要所がきちんと引き締まって、たるみなど全くない。本当に目に楽しい外見だ、と典雅は独りうなずく。
やはり、やや激昂気味だ。
「あ゛あ゛〜〜〜っ む〜か〜つ〜く〜ぅぅっ
── なんでテメェなんかにこんな美人がっ!?」
無駄に大きなダミ声に振り返れば、男子生徒が4人。
「お? 終わったか?」
騒動のどさくさで、不祥事が発覚した悪友共に小馬鹿にするような仕草で振り返った。淡泊な反応ばかりの少年に、初めて生き生きした表情が見られるというのも、やや問題が有るだろう。人間性などに。
「こってりと絞られたみたいだなぁ?」
「うるさいよぉっ」 「テメエのせいだろうがぁっ!」 「……次は貴様だ」 「死ねっ、黒木に殺されてこい!」
口々に唾棄される悪態を、口元だけで笑いながら聞き流す。
―― が。慎重に膝立てた、痺れた足を蹴られる事は、流石に無視できない。
「―― が……っ! お、お前らっ」
典雅は、走った電流のような感覚に身動きを封じられ、歯がみ。
「どうなさった、典雅様?」
金髪娘は不思議そうに首を傾げ、蹴られた箇所に指を伸ばした。典雅が止める間もない。
「おい、止め ――……ぁっ!」
「── ん?」
「……のっ! って止めろってっ ―― うおっ! あっ! こらっ」
いちいち仰け反り悶える、典雅の過敏な反応がお気に召したようで、彼女は楽しげにつつきまくる。
「どうじゃ、典雅様? 気持ち良いかえ?」
「―― んな訳有るか! しびれて痛いんだか、むずかゆいんだかっ」
「そして、やがては快楽へと……
妾も、最初に触れられた時は ――……のう?」
あえて言葉を濁し、口元に手を当てて笑う。
「―― やっぱり。 お前なんかには、とてもとてもとてももったいない」
「確かに。 こんな美人なのに」
「巨乳なのにタレてないのに」
「それどころか、足首もこんなに細いのに」
「いや、やっぱり俺はアゴのラインがな……」
「ははっ、分かってないなぁ。
やっぱり女の人の真の魅力はね、 『うなじ』 で決まるもんだよ?」
口々に好き勝手言っている。が、言いたい事は同じで、
── 『なのに、なんでこんな奴に……っ!?』
口を揃えてしみじみうめく。
「── ちなみに、お姉さんお名前は?」
軽薄そうな声の問いで、ようやく典雅も思い至った。
「そう言えば……お前の名前は?」
気まずそうな声に、悪友一同はそれはそれは冷たい目を向け、
「最低だな、コイツも」
「人間のクズ共め……っ」
「 『類は友を呼ぶ』 っていうんだよ? もしもし、君たち分かってます?」
「ふっ
貴様も、俺の事をとやかく言う資格が無くなったな?」
なんだか、ごく一名、微妙に嬉しそうな、理知的雰囲気と相反して長身な眼鏡の少年。
「お前みたいに、無理矢理襲った後に口説くような真似なんかしてないっ 一緒にするなっ!」
典雅は、頑なに馴れ合いを拒む。
「やる事犯っておいて名前も知らない、っていうのも大差ないと思うよ?」
「全くだ。 少しも変わらんじゃないか」
「目くそ、鼻くそを笑う、ってヤツだな……」
「──で、お姉さん、お名前は?」
そう聞かれた女は、典雅に振り返り、
「── ところで、妾の名前は?」
「なんで、それを俺に聞く……。 あ、ひょっとしてお前、記憶喪失とか?」
そんな事を訝しむ典雅だったが、首を横に振って否定される。
「妾は ―― 妾の此の身体は、只我が主である、典雅様の為だけの物。
典雅様の為だけに此処に、こうして在るのじゃぞ?
―― ならば。妾の呼び名も、典雅様に付けて頂くのが道理では無いかえ?」
彼女は自分の豊満な胸の谷間の辺りに手を当てて、やや意味の分からないものの、何だか甲斐甲斐しくも聞こえる事を告げてくる。
悪友の面々からどよめきが漏れた。
「クソっ なんか知らんが、すごい 『のろけ』 をやられている感じがするっ
何で典雅なんかに、ここまで金髪巨乳が惚れるんだっ」
「ホント、 『こんなの』 のどこが良いんだろう?」
「本当に。 典雅が良いなんて、ゲテモノ食いな……
……あ、そうかっ きっと美人度に正比例して、どこか変なんだな。 きっと。 内面とか」
「―― だが、幾ら何でも多ヶ島如きの恋人にしては、出来過ぎだ。
この男、一体どこからどうやって勾わかしてきた……?」
「……お前らに、そこまで言われる筋合いもないと思うぞ」
悪友達の戦々恐々とした言葉の数々に、そう抗弁する典雅だが、
「バカを言うなっ
貴様みたいな人格破綻者の求愛を受け入れるなどという誤った婦女子が現れるなどっ!
―― それがよもや金髪巨乳の美人で、べた惚れだとっ!
貴様、いっそ悪魔とでも契約しおったかぁっ!?」
それはいくら何でも大仰すぎるだろう、と典雅が突っ込みを入れる気にもならない程に、眼鏡の少年が悲痛な絶叫を上げると、残る3人も間髪入れずにうなずいた。
まあ実際、部分的に正解にも近いようだったが…。
「―― 良いのかえ?」
沸々とストレスが溜まってきた典雅が何か言う前に、話題の紅一点がこちらに向き直って口を開いた。
「何か勘違いが有るようじゃが……妾は、典雅様の恋人などではあるまいに」
その呆れ混じりの声に、
「――えっ……? ……あ、ああ。 なんだぁ。 ……まあ、それはそうだよな?
俺みたいな真人間ですら彼女が出来ないっていうのに、こんなヤツにそんな訳が有るはずないよなぁ……」
「まあ、僕も ──」
と、童顔の少年がため息一つ挟んで続ける。
「── 実際、何かうさんくさい話だとは思ったけどさ」
「となると……誘拐したり監禁したりして、それから無理矢理
── 『ああっ いやぁ! 止めて お母さ〜んっ』 とかか?
やっぱりこいつはクズだな、クズっ」
「つまり、襲っておきながら、口説きもせずにおさらば、という魂胆か? ── ふっ、一応責任を取ろうとする分、まだまだ俺の方がまだまだマシじゃないか……」
何故か揃って窓の外を眩しそう、かつ爽やかそうに眺める少年達の、妙に晴れ晴れとした安堵の声。
金髪の女は、その妙なテンションに少し困惑し、恐る恐ると訂正の声をかける。
「……いや、そち達な。 妾が云いたい事は……その、何と云うか……」
少し碧眼の視線を宙にさまよわせ、
「つまり、妾が典雅様に傅いておるだけであって……―― まあ、要は恋人云々以前に、主従の関係であると ――」
と、探りながら紡ぐ彼女の言葉は、半ばでぶち切られた。
『―― なにぃ!!!? メイドさんだと!? 金にものをいわせやがってっ』
息をそろえた絶叫には、非難と羨望の色。
「―― むぅ……メイド? ……家政婦かえ?
確かに、召し使いと云っても誤りでも無かろうが……しかし……。
うむぅ……なんと名乗るべきか……」
小首を傾げて、巨大なふくらみを持ち上げるように腕を組む金髪。
それを放置したまま、周りは勝手に盛り上がっていく。
「う、うそだぁ、そんなっ
── 『ご主人様、起きてくださいぃ』
── 『もうっ 早く起きないとこうですよ?』
── 『えいっ ん……くちゅくちゅくちゅ……ああん、ご主人様の、すごぉい…』
とか言っちゃって、毎朝なんてぇっ!」
「なにぃ!? 今日も俺達が寝ている隣で朝っぱらからクワエてもらってたのかチクショウっ!! その上、フィニッシュは当然中出し!?
―― 『ああっ ゴシュジンサマっ ナカは、膣内だけは許して ―― ああっんっっっ!』」
「何が 『すごい、ヤケドしそうなほど熱いのがドクドクって…ああっ!』 だ!? 精液も膣内温度も大差無いだろうが!
それどころか、相手が立場上逆らえ無い事を良い事に、無理難題をふっかけて、失敗するたびにお仕置きと称した卑猥な事を強要しているのかっ!? この下衆めっ!」
口々に非難される。さらに、
「そんなっ、ひどいよテンちゃん!
そのお姉さんを地下室で縛ったり叩いたり道具を使って色々な事したりするなんて!?」
と、身に覚えも無いような事で責められるのかと思えば、
「── そんな楽しい事、何で僕を誘ってくれないのさっ そんな友達甲斐のない奴だなんて思わなかったよ!
1人で暗く細々とヤるより、大勢でわいわいがやがや犯った方が楽しいに決まってるじゃないか、何事も!」
要は混ぜろと言っているらしい。
「……相変わらず頭の悪い連中」
何のスイッチが入ったかは不明だが、天井知らずに白熱してきた連中に、典雅は頭痛を抑えるポーズで呆れの吐息。
「ほうほう……成る程のぅ……」
と、横で何やらしきりに感心している者も居たりする。その、話題の中心たる女性はひとしきり肯き得心すると、一つ指を立てた。
「まあ、妾が典雅様にそのような関係ではあるのは間違いないとしても……
しかし報酬の為にではなく、単純に隷属しておるだけなのだから、召使いではなく、隷と呼ぶか、あるいは奴隷とでも ――」
「―― いや。 もう、余計な事は言うな、お前も。 さらに話が長くなる」
典雅は、言うが早いか、女の口を封じるように首を腕に引っかけ、足早に連れ去る。
残された連中が、また口々に好き勝手言っている様だったが、相手にするだけ時間の無駄、と無視しきる。
「おや? もう、欲情されたのか?
……ふふっ、性急なお方よ」
ラリアットの様に引っかけられた腕をくすぐる、どこか小悪魔的な吐息。
「…………」
何だか、良いように遊ばれている気分もする典雅だった。
~04
―― パンっ!
平手打ち。教師らの前に立って一番はそれだった。
「── 多ヶ島、お前って奴はっ!」
結構な威力だった。それもそのはず。続けざまにご高説を垂れ流す黒木教師は、体育教師で、バレー部コーチ。現役時代に名アタッカーとして活躍したという、自己紹介は伊達じゃなかったらしい。
「── 一体何を考えて居るんだ、お前たちはっ! あれほど問題を起こすなと言ったのに、その側からっ」
「…………」
だからといって、別に口から血が出ている訳でもない。口の中を切る程でもなかった。半ば無意識で、力の流れに逆らわず威力を逃したから。普段の努力の積み重ね、ロクな事のない人生経験が為させた技だった。
「お前達は酒や煙草までぇっ
一体、どうやって持ち込んだんだ、え! え!?」
「…………」
―― 叩かれた。だからといって、恨む筋合いもない。最初から、潔く一発もらうつもりがあったのだから。
今回の事のみ成らず、毎度毎度、自分たちはひどく迷惑をかけている。ガラスを割るようなケンカも日常茶飯事。2年生を担当する教師達が、胃を痛めているのは想像に難くない。そもそも、よく自分たちを連れて修学旅行を行こうと決意した物だと、感心さえしていた。
「しかもお前に至っては、よりによって女を連れ込みおって! しかも、部外者だと! ── いや、そんな事より、お前はどうやって旅館から抜け出した!? おい!」
「…………」
―― しかし。
そんな殊勝な考えとか思いやりとか同情心とかも、ほおの痛みと耳鳴りのような怒鳴り声を前には、次第に薄れていく。
「── だとっ? なんで ── した!? お前 ── なのか!? え!?」
「…………」
(よく考えてみれば……
今回の事で、俺は、悪い事なんて何もしていないじゃないか……)
と不条理な点を見いだせば、いよいよだ。
「おい、聞いているのか! 多ヶ島っ!?」
「…………」
だから。
例え、ちょっとにらむような目つきになってしまっても、不可抗力だと思うのだが……
「多ヶ島っ なんだその目はっ!」
説教している方としては、到底見逃せなかったらしい。
「なんとか言ったらどうだ!?」
エキサイトした黒木体育教師は、生意気な生徒の胸ぐらを掴む。
胸ボタンが1つくらい飛んでいくのが視界の端に映った。
「…………」
典雅はぼんやりと、振り上げられた手の平の動きを目で追う。
そして……――
―― その平手ごと、教師の姿が消失した。
「……あれ……?」
服の胸元が乱れた典雅が、ぽかん、とした顔で首を傾げる。遠巻きに周りを囲む他の教師達も、同じくだ。
「………………………」
『………………………』
一拍の静止の後、全員揃った動きで辺りを見渡し、ソファーに逆さまに突っ込んだジャージ姿を見つける。
「……あれ……?」
と、唐突な状況についていけず、再び首を傾げれば、
《―― 我が主に害為す、愚者共っ》
洞窟の中で反響するような、しかし、凛とした声質。
振り返れば、ドアの所に金髪が、憤然とざわめいていた。まるで、追い風を受けるような姿の主は、柳眉を恐ろしい形に歪めて、吐き捨てる。
《その報いを受けるが良い!!》
宣告と共に、烈風が吹いた。
止める間もどころか、身を隠す間さえなかったのだから、そのまま吹き荒れたとしても、…まあ仕方ない事なのだろう。
~05
「―― だから、不可抗力で、仕方ないのであって…」
そう、典雅は一通り経過を思い出して、納得。
「うん、なんだ。やっぱり、俺が悪い訳じゃないな、ホント」
満足げにうなずく。
―― 悪いのはあくまで、馬鹿やった悪友共だったり、大きな胸を誇示するようにふん反り返っている金髪娘だったり、あるいは、非のない自分に、二度もほおを張ろうとした教師だったり。あと、星の巡りとかが、きっと……
そんな、目の前の唐突な災禍の後から逃避活動も盛んな典雅であったが…
―― 『なんか、今、凄い物音がしなかったか?』
―― 『どこだ? 誰か暴れてるのか?』
―― 『何だか、先生達の部屋の方向じゃなかった?』
危うい気配がする。
すると典雅は、ぽんっ、と手を打ち、
「―― 逃げよう」
軽い声で即断。ただでさえ、何だかややこしくなってきたのに、これ以上の厄介事は正直ご免だった。なにせ一見すれば、教師相手に暴力沙汰という現状。明らかに誤解だと、切に訴えたいのだが。
しかし、このままではそう誤解されて、停学程度で済めば御の字な事態に発展しかねない。
即、尻ポケットを叩いて財布を確認。次いで自分の服。外を出歩くとしても問題ない格好だ。昨夜に海岸線を散歩した時のまま、部屋着として持ってきた私服なのだから。部屋の入り口にはスニーカーだって有る。まさに、こんな事態に備えたかのような周到さ
── いや、そういう訳では決してないのだが。全く偶然の配置だったが、取りあえず、備えあれば憂いなし。後は、脱出経路であるが…
「廊下を歩くのは避けると、一つか……」
典雅はつぶやきながら窓に目を向け、本当に2階の部屋で良かった、と幸運に感謝。本当に幸運の持ち主ならこんなややこしい状況に陥らない、という様な根本的な事には考えが及ばない。
2階に教師という部屋割は、最下階の部屋に陣取って生徒達の夜間外出を禁じる、という監督の意図からだった。近年希に見る問題児達を抱える学年だから、その種の気の配りに抜かりはない。だから当然
、一番目を光らせなければならない問題児は、同じ階の近い部屋に集めてある。要は、それが5組4班 ── 典雅と悪友達の部屋だった。
しかし、昨日の夜半、人知れずに旅館を抜け出してみせた輩には、何の障害にも成らない。
典雅はスニーカーに足を突っ込みつま先を地面に叩き付けて履くと、土足で畳の上を助走。そのままベランダの手すりを踏み越え、2階、地上約8メートルから身を躍らせた。
「──……無茶じゃのう…… 全く、呆れ入りますわ」
それは、典雅が地に足を着けた時、上から降ってきた声。
「何が?」
そう聞き返して振り向くと、声の主も続いて降ってきた。
「―― 確かに最短距離ではあろうが……」
窓の近くの木の枝に飛び移り、木を伝って降りる。その、典雅の逃走経路を何度も視線でなぞり 「うむぅ……」 と、ひと唸り。感心か呆れか
、解らぬ声で続ける。
「足を踏み外せば、と危ぶまれる事は在りませぬのかえ?」
ちなみに、窓から一番近い枝までは、直線距離で2メートル程度。助走を付ければ飛べない距離ではないが、万が一を考えれば、飛ぼうと思う事の少ない距離でもある。
対して、文字通り自由落下してきた金髪だが、地面を1m前にして、速度が急に緩まる。まるで、見えないゴムを着けたバンジージャンプのような減速具合だ。地面に近づくほどに勢いが減じ、地上10p程度では、もはや空中停止。そうやって、細い足首を全く負担をかけずに悠々と着地を果たし、歩み寄ってきた。
「……本当に、 『誰の』 、 『何が』 、無茶苦茶だって?
少なくとも、お前には言われたくないや……」
典雅は、驚きを通り越し、やや疲れたような表情。
「誰の、何が、とは……もちろん。 典雅様の、思考と行動の他にあるまい?
いやはや、妾を解放し、手込めにされるだけあって、並一通りではない 『人と成り』 でいらっしゃいます。
感服いたしますのぅ」
決して誉めてない語調だった。
(……なんで俺の回りの奴って。 こうも自覚症状がないくせに、俺の事ばかりを奇人のようい言いやがるんだ……?)
ため息を吐きながら頭を抱える典雅だが、自覚症状がない輩は大体がそう思うのだと、致命的な事に気付かないのも仕方ない。自覚症状がない限り、人の振り見て我が振りを直す、などという事さえないのだから。
「―― それはさておき、典雅様。
先程の件は考えていただけたかえ?」
「は? 何?」
「何、でございませぬ。妾の名前の事じゃ。
名乗るべき名が無いというのは、ひどく不便であるが故、早々に付けて頂きたいのじゃが?」
「そんな物、自分で考えろよ……」
面倒だ、とばかりに手を振るが、女は食い下がってくる。
「妾自身が付けては意味がないではないか。
そなたに、妾が典雅様に属するという証であり、刻印でも有るのじゃぞ?
だから、他の者に、妙な愛称を付けられる前に名付けて下され」
「……ふ〜ん。 じゃあ、まあ、何か考えておくから」
良く理解できず取りあえず肯くと、典雅はそれ以上は取り合わないと言うように、背を向け市街の方へ足を向ける。
「今すぐには、付けては頂けないのかえ?」
後ろについて行きながら、女は強請るような声。妙に甘い響きがあった。
「いや、なんか、ピンと来る名前が出てこないんだよなぁ……そもそも、俺は外人の名前なんかさっぱりだしな。
思い浮かぶって言っても、アリスだの、マリアだの、アンだの、そういうありきたりな名前くらいしか……」
「別に、ありきたりな物でも悪い訳ではないのだぞ?」
「そう言われてもな……」
思い悩む、というより、面倒だ、という表情で典雅は頭をかく。
「なんて言うか……お前のイメージにあった名前が思い浮かばない、って意味なんだけど。
そんな、見るからに天然金髪のお前に、日本語の名前付けるのも違和感有るし……
でも、そんな口調じゃ、普通の英語の名前ってのも違和感がな……」
── 一番に思い浮かんだ外国人女性の名前は 『アリス』 だった。
しかし、アリスという名から連想するのは、ルイス=キャロルの童話 『不思議の国のアリス』
。確か、主人公の少女・アリスは金髪にエプロンドレスと、そこまでは良いのだが、肌は雪のように真っ白な白人女性だった気がする。しかも、なんとなく可憐な印象があるので、印象が合わないと却下。
マリア、といえば教会のステンドグラスの聖母が思い浮かぶ。確かユダヤ人で黒髪で黒目だったはずだ。
アン、は 『赤毛のアン』 で論外。
ついで思いついたアンネ=フランクもユダヤ人で、黒髪黒目。
やはり、イメージに合う名前が思い浮かばない。それでもしばらく記憶を探る。
マリリン=モンローだの、オードリー=ヘップバーンだの、妖艶ながら教養が高そうだったり、上品で清純そうだったり、明らかにイメージの違いすぎる有名人の名前くらいしか出てこない。あるいは、ジャンヌ=ダルクやマリー=アントワネットから、クレオ=パトラや楊貴妃・西太后、あるいは小野小町。
そういう、歴史の授業で出てきた女性名くらいしか浮かんでこない。
しかも、アメリカやフランス、あるいはドイツやイギリスを周り、エジプトにたどりつき、シルクロードをわたって中国から伝来、日本に戻ってきた。というのに、肝心の中東近辺では、有名人の名前すら出てこない。というか、そもそも思い返すに、中東の女性名など知りもしなかった。
大体、ジャンヌ=ダルク
ぐらいの知名度になると、逆に、普通は偽名としか思わないだろう。よって、歴史上の偉人とかの名前を使用するは、不可。
今度は頑張って違う方向に有名な人物 ── 要は、洋楽の歌手とかそういう方向の名前で何か良い物はないだろうか、と考え込むものの、フランシスコ=ザビエルだの、レオナルド=ダ=ヴィンチだの、ルイ14世だの、頭が世界史から離れてくれない
。それどころか、明らかに男。脱線だ。
しかも、ようやく思い至ったものが、ジャミロクワイ。バンド名。しかもこれも男。よくよく考えてみれば、洋楽などほとんど聞かないのだから、思いつくはずもない。
典雅はどうにか男の名前から離れようと頭を振る。
しかし、結果、どれほど頑張っても、小麦色の肌で金髪碧眼の女性で、目の前の女のアバウトな性格に合うような名前というのが思い浮かばない。しかも、ちょっと中東っぽいという条件が加味されれば、もはや典雅の知識の中には存在しないと確定したような物だ
。と、遅まきながらも気付いた。
「―― ちなみに、今までは何て呼ばれてたんだ?」
ちょっと、ヒントを求めてみるが、
「ふむ。 今までかえ?
―― うむぅ……。 シャイターンとか、ジンとか、それぞれが好き勝手に呼んでは居たような気が……」
「……何で自分の事なのに、そんなに曖昧なんだよ?
── ていうか、お前。 名前無いのか、そもそも」
典雅の根本的な問いだが、彼女は首をひねり曖昧な受け答え。
「むぅ……しかし、これといって固有の名称は無かったような……」
頭を悩ますのに必死で聞こえていないようにも見えなくもないが。
「まあ、シャイターンとジンね?
なんか、女よりも男の名前みたいだなぁ……名字くらいなら有りそうだけど……」
「名字……姓かえ? 別に、名だけでも良いでは?」
「それこそ自己紹介できないだろ? 普通、どこの国でも名字くらい有るはずだし……」
「そうなのかえ? 草民も貴人のように姓が有ると?
……人の世も移ろい変わったものよのぅ」
金髪娘の感嘆の声に、
(確かにそんな時代の奴なら、名前が無かったりもするかもな)
と、典雅は勝手に考え、独り納得する。明治の制度で一般平民でも名字を持つ事が許されたので、それ以前は日本でも名字が無いのは当たり前だった、というような日本史の授業内容が思い返されたのだ。
「まあ、後で名前付けてやるから。
取りあえず、今は我慢しろ」
「承知いたしました」
── そんな、人が聞けば訝しく眉をひそめそうな会話をしながら、2人は最寄りの駅へ歩いていった。
~06
実は典雅は、どうせ放浪するなら、市内見物でもしようかと考えていた。
予定表で言うなら、今日は本来、丸1日班単位での自由行動。だから、この辺りの地理は下調べは済んでいたので、迷うことなく大通りから駅へとたどり着く。
「そういえば……」
小銭で切符を購入して、財布の札入れをのぞき込む。すっかり失念していたが、昨夜の事が淫夢ではなく現実なら、残額は少ない。事実、典雅の財布の中身は当初の予定より約一万減。小枚がいくつか有るが、中・大は皆無。
隣の席で窓にしがみつくようにして、電車の挙動に一々はしゃぐ金髪娘とは反対に、典雅は始終渋面。
降車して駅の構内を抜ける最中に、キャッシュコーナーが目に入った。万が一を考え銀行のカードは持ってきているが、しかしこんな事で生活費を目減りさせる事にも抵抗を感じる。
しかし、本来使えるはずだった金が無いと言うのなら、折角繰り出した所で予定の半分も巡れない。というより、最早おみやげ代を差し引いたら、交通費と昼食代くらいしか手元にない計算になる。
そんな訳で、典雅の市内観光の予定は、いきなり頓挫してしまった。
ぶらぶらと繁華街に向かいながら、何か金がかからなくて、面白い暇つぶしはないだろうか、と辺りを見渡す。その視線の行き着く先は、いつの間にか典雅を追い抜き、辺りを物珍しげで落ち着きのない金髪。ジーンズ生地に包まれた、張りのあるヒップ。すらりと伸びる小麦の肌の、ふくらはぎ。太股の、胸の、腰の、秘部の、肉の柔らかさと、心地よさを思い返し、思わず唾を飲み込む。
「……なあ」
「―― ん? なんぞご用か、典雅様?」
振り向く顔は、明るく無邪気。あまり、ふしだらな事を求めて良さそうな雰囲気にも見えない。日も高いし。
しかし、典雅はさほど躊躇いもせず、求めるままに口にしてみた。
「お前、俺の 『女』 なんだよな?」
(……あまり実感が湧かないけど)
と、内心付け加えた。
いまだ主に名を貰えてない彼女は、無邪気な笑顔のまま首を傾げ、
「今更何を云われまするや。
昨夜、そのように約を交わし、契りも結んだではないか。
もう、お忘れかえ?」
そう言って、ふと、何か思い付いたように手を打ち合わせ、
「―― ああ、分かった。 欲情されたのであろう?」
あからさまな言い方ながら、相変わらず声も表情も無邪気なまま変わりがない。あっさり言い当てられて典雅は、そんなにあさましい表情をしていたのだろうか、と訝しみつつも、続ける。
「他に金のかからない暇つぶしも思い付かないしな。
―― 嫌か?」
自分の言葉に、ムードも何もないな、と内心苦笑しながら尋ねれば、
「ふふ。 妾が、典雅様を拒む理由など有りはせぬ。 そなたの為の我が肉体ぞ? 遠慮など要らぬ、たっぷりと味わってたもれ?」
少しも笑顔を崩さず、しなだれかかってくる。しかし、その表情は色気と言うより茶目っ気にあふれていて、こちらもこちらでそういう雰囲気なんて欠片も見えない。
「じゃ、やるか?」
少年が軽くそう言うと、女もああ、と肯き応じる。
「良いぞ、やりましょう」
ひとまず、そういう事になった。
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