シャイターンの堝
<堝15 title="鬼と狗">
~01
「……死んだ、か?」
訝しむ、というより、後味の悪い、という顔で男が独り言のように漏らす。
と、その口から紫煙が立ち上り、ゆるりゆるり、と窓の外へ。青い空へと。短く刈り込んだ黄髪の青年が、陰気な顔で晴天を見上げていれば、
「…また寝煙草してるぅ」
気だるそうな、女の声。
「もうっ それ止めなさいって言ったでしょ?」
彼の隣でうたた寝していた女性が半身を起こし、彼の口から煙草を取り上げた。
「…返せ」
男は、気だるそうに手を伸ばし、力無く反抗の声を出す。
「だ〜め。
大家さんがうるさいのよ。 どこかのバカが畳にコゲ後作ったりするから」
彼女は煙草を片手に、情事の後の少し赤らんだ肌を隠すように、ワイシャツだけ羽織った姿で立ち上がる。安普請のアパートは当然手狭で、布団から
ダイニングまで5歩もない。彼女が、テーブルの上のコーヒー豆殻の敷き詰められたクリスタル灰皿に、タバコの火先を埋めようとすれば、男が手を伸ばしてきた。
「返せって」
恋人は、その手から、彼女はいまだ紫煙をくもらせる煙草を遠ざけ、
「あのね…、あんた怪我人なのよ? もうちょっと静養したら」
あきれ顔で忠告するが、彼は少しも聞き入れる気配もなく、抱きつくようにタバコを奪いにくる。
「ええから、返せって」
「だめだっていって── ひゃぁ…っ
…もう、バカどこさわってるのよっ」
女は、羽織っただけのワイシャツの間から侵入した男の手に脇腹をくすぐられ、思わず身をすくませた。
その隙に、男は彼女からタバコを取り返し、再び口へ運ぶ。
彼女は、そんな男を恨めしげな目でにらみ、
「もう、コイツは、本当に怪我人って自覚あるのかしら…?
さっきも、買い物から帰って来るなり抱きついてくるし…いや、それはね…確かに嫌じゃ無いけどさ…でも…それに仕事が出来ないからって、こんな昼間からなんて…」
次いで、自分で言いながら思い返して、顔を赤くし、徐々に声も小さくなっていった。
対して、男はどこか疲れきったような憂鬱と気怠さの半々といった覇気のない顔。紫煙混じりに開く口も、大体そんな所で、
「仕方ないやろ…。 ほれ、葬式の後とか、なんかヤりたくなるもんやし?」
「何で葬式なのよ? 怪我しただけじゃない…意味わかんないわよ」
答える彼女は、どことなく責めるような声調。精悍な男の裸体に、真っ白い包帯を巻いただけという、見ようによっては退廃の香りのする格好を盗み見、また少し顔を赤らめて、そっぽを向く。そして、
「…それに『虫の付きが悪くなる』って、煙草は控えてたんじゃないの?」
女が、まだ脇腹の辺りをくすぐったそうにさすりながら、そう疑問を口にすれば、
「ああ、まあでも、これは別モンやし」
と、男は一言。
一拍ほど、紫煙を吸って、吐いて。
「昨日の、あの坊主と嬢ちゃんへの線香代わりやから…」
まるで鉛の塊でも吐き出すような、重く沈んだ声を吐く。それが招いた、重々しい沈黙を打ち破るように、男はあえて明るい声を出す。
「ほら、な。旨いタバコの味も知らんと、死んでも死にきれんやろう? まあ、供養としてその辺を代わりに、ちゅーやつや? ああ、優しいええ男やなぁ、俺」
空回りの明るさに続くのは、再度の重い沈黙。
今度、それを破ったのは、女の方だった。
「…あのさ、そんなにあの連中ってヤバイ相手なわけ?」
「何を今更…昨日、俺があっさりノされたの見てへんかったんかい?」
「いや、見てたけど…あれじゃ多勢に無勢だからさ。ああいう『素人』相手でも、まあ、仕方ないかなぁ…って」
女は、どことなく男の顔色を伺う様子だが、その相手はただただ呆れの表情。
「『素人』、な…西側最大最強勢力相手によく言うわ」
「はぁ?
何言ってるの、連中、霊力なんてほとんど ──」
「── 揃って肉弾戦勝負の連中やからな。
利根連座、って知らんか?」
「トネ…レンザ?」
彼女の声のトーンだけで、もはや応えは知れた。彼は面倒そうに、煙を吐いて、説明のために口を開く。
「…まあ、関東以北じゃマイナーかもしれへんな。
京都の山奥に本拠置いて、日本刀片手に退魔やっとる連中や。
まあ、正確には、日本刀やのーて霊剣 ──…やのーて、なんちゅーたかな…式刀? とか言うとったかな…」
「── 京都の霊剣使いって…まさか!
『剣の斎姫』のっ!?」
何か思い至る点があったのか、彼女は驚愕の表情。
その半疑の声に、男はうなずき返し、
「せや、そのお姫さんの居る組織や。
連中の戦い方、剣がメインなだけに至ってシンプルでな。囮を使って罠に追い込み
、集団で串刺しや。
ほら、昔テレビであったやろ? 原始人が石斧とか槍とか持ってマンモス追い回すやつ…あんな感じや。情け容赦もクソも無い殺し方や」
男は、あえて明るい声で。あえて、『殺し』と言って。笑うように。唾を吐くように、紫煙を吐き捨てる。
そして、長話のせいか、いつの間にか持つ指に迫るほど短くなった煙草を、灰皿に押しつぶす。
「あの金髪嬢ちゃんにつけた『虫』も音沙汰無くなった事やし…。
もう、なんもかんも綺麗さっぱり済んだ後やろうな…」
その、タバコの断末魔のような小さな煙と、男のつぶやいた声とを流し去るように、緩やかに風が吹いた。
── ちりりん。
どこかから季節外れの風鈴の音が、どこか物悲しく秋空に消えていった。
~02
「おや?」
建物の角を曲がって、少年は首を傾げた。
「おっかしいなぁ」
長身の少年は、路地裏の先にある、開けた場所に至って、腕組みうなる。
「どうしたの?」
と、声を掛けたのは、追いついてきた童顔のクラスメート。
「…って、あれ? 行き止まり?」
「そうなんだよな…まさか、多ヶ島がネェちゃん達を連れてあの壁を登っていった、とかは無いだろうし…」
そういって目線を向けた、10メートル少々先にある壁は左右の建物と大差ない高さだ。目測で5、6メートルは優にある。
「そうだね。 脇道とか、抜け道とかも無いし…」
見渡して目に付く物と言えば、倉庫の搬入口らしき横開きの扉だが、それもしっかり南京錠で締め切られている。
「………」
ふと、声がとぎれた。
喧噪から遠ざかり、静寂を横たわらせる裏路地。晴天の天気の最中、建物に囲まれた日陰の場所のせいか、どことなく湿気っぽい。切り抜かれたような狭い空間は、何となく不気味な雰囲気を醸し出していた。
「………」
そんな、魔が差すような空気を一蹴したのは、眼鏡の少年。
「上手くまかれた、か?」
すると別の少年が、嬉々と野太い声を張り上げる。
「そうかぁ!
ここに入ったと見せかけ、実は建物の影とかに隠れて、やり過ごしてどこかに逃げたんだな!
── 入っていると見せかけ、実は中身はカラ! 初歩的なトリックだ!」
「…なんかカズ君、妙にうれしそうだね?」
「放っておけ。最近、推理ものの漫画にはまっているだけだ」
「…そんな頭使いそうな物を読んでる割には、成績悪いよな、坂井のやつ」
「別に、持っている本と本人の知能が、正比例する訳でも無いだろうよ」
「── って、待てぇぇ! なんか聞き捨てならん事を言ってないか!?」
「いやいや、カズ君の言うとおり、テンちゃんはこっちに行ったと見せかけて、別の所に隠れたんだろうねぇ、って話してたんだよ。さすが、推理マンガ愛読者は違うねぇ」
「ははは、よしたまえ! そんなサスガは名タンテーだなんてっ
私にかかれば、このくらい大した事ないわけだよ、ワトソン君!」
明け透けなおべっかにあっさりと機嫌を直し、少年は踵をかえした。
「うわ〜、単純」「アホだ、アホがいる」「探偵役というより、事件の冒頭で殺される脇役タイプだな」
と、友人一同は声を潜めて酷評。
ともあれ、一同、揃って大通りへと戻っていく。
「── とにかく、俺としては!
アイツが、金髪爆乳メイドさんのみならず、プッチンムッチリのセクシー姉ちゃんと、人目に隠れてあんなそんなコトなんて許されない事だと思うわけだ! そう、人として!」
「多ヶ島のヤツ、やっぱりそんなつもりで…!?」
「っていうか、こんな事してまでボク達から逃げるなんて、そんなつもりしかないよね?」
「…あ奴め。人の旅行の行程を1日分ふいにしておきながら、自分だけそんなうらやま ── いや、ふしだらな行為に耽っているとは、なんたる反省の無さ…っ!」
と、眼鏡の少年が怒り戦けば、その怒りが伝播したかのように、口々に不平不満の声が噴出する。
「ひとの旅行の楽しみをつぶしやがったクセに、自分だけいい目みやがって!」
「くそぉっ! ムッチリプリンがダブルであんなそんな!」
「テンちゃん1人だけ良い思いだなんてズルイやぁっ」
「これは、もはや、教師に密告しても然るべき、いやむしろ、生徒の自治と責任において、当然至極の対応だなっ」
典雅の級友達は、そんな事を口々に言いながら、『典雅が入っていったはずの裏路地』から、遠ざかっていった。
~03
「なんだ?」
何となく、聞き覚えのある騒がしさが後ろをなでて過ぎ去っていった。そんな気配を感じた。
しかし、振り返ってみても、誰もいない。
が、やはり何となく悪友達が居たような気がして、典雅は首を傾げる。
やはり、何度見渡してみても、それらしき人影など一つも無い。
ただただ、赤い髪の少女に大通りから連れ込まれた狭い裏路地と、その先にちょっとした広場ほどの、建物に囲まれた空き地があるだけ。
「気のせいか、な?
…まあ、昨日から馬鹿な連中の巻き沿いをくらって、その上妙な事に巻き込まれたからなぁ。精神が疲れているのかも…」
── 目が覚めたら、夢の中の住民のはずの女が添い寝してたり、
── そのせいと、悪友達の飲酒・喫煙で修学旅行先で廊下に正座させられたり、
── 外に出たら出たで、訳の分からない怪物(?)に襲われる女の子達の巻き沿いを受けたり…
そう思いながら、その『妙な事』の一因であり一員でもある、シルフィ=シャイターンを見やれば、
包囲され絶え間なく攻撃を受け、徐々に押され気味。まだ窮地と言うほどではないが、何時そうなってもおかしくないような流れになりつつある。
自称・典雅の隷の、手助けするなら今しかないが…
「…って、よくよく考えてみれば、別にあいつを待ってる必要もないのか…」
── が、そこは所詮『自称』だ。
勝手に主人と認定されている側としては、あまり愛着がないのか、あっさり見捨てて、独り面倒事から遠ざかろうときびすを返した。
── と、そこへ、
「いけないね、放し飼いなんて。 飼い主としてちゃんと責任を持たないと」
不意に、背中に若い男の声がかかる。耳元に息がかかるほどの至近距離で。
「──!?」
典雅は、驚き、振り向き、そして、思わず殴りつける。
だが、相手の顔を見る間もなく、典雅の視界は反転。
── だん…っ
音と共に、全身に衝撃が走った。少し遅れて、腰と背中に熱い痛みが、じわじわと湧いてくる。
「筋は良い…が、動きに無駄が多いな。
もう少し精進した方が良い、そのままでは素人の喧嘩技と大差がない」
そんな、余裕どころか歯牙にもかけてない様な声と共に、人の体重が背中に乗ってきた。何か抵抗する間もなく、うつ伏せに組み敷かれ、腕をひねり上げられ、頭を押さえ
付けられる。
「くそ、てめぇっ」
横っ面を地面に押さえつけられ、ほおに小石が刺る痛みを感じながら、典雅は横目で相手をにらみつける。
サングラスをかけた青年だ。若く生真面目そうな印象だが、剛健さも厳めしさも感じられない。むしろ
優男然としていて、見た目からすれば、先程殴り倒した茶髪の青年の方がまだ強そうだ。
しかし、極められた腕は微動だにせず、押さえつけられた頭もわずかにも地面から離れない。
見かけに寄らず、かなりの手管。完全に極められて押さえ込まれた今の典雅に出来る事と言えば、無意味に足をばたつかせるぐらいだ。
「ま、それも、五体無事に帰れたら、という話だね。
君の処遇は後にするとして、まずは君の使役の末路を見守ってやりたまえ」
言って示す先には、やはり徐々に包囲を狭められているシルフィの姿があった。
~04
「おのれぇっっ!」
それは、魔性の怒声。怨嗟と憎悪の籠もる、魔の呪詛の声。その呪いの言葉は、再び災厄の風を生んだ。
逆巻く風。吹き荒ぶ霊威。その魔風は、金髪碧眼褐色肌の美女の姿を形どる魔性の示すままに、甲高い音を連れて激流のように、刀剣を構える青年に襲いかかった。
「──っっ!?」
青年が魔性に斬りつけようとした、まさにその瞬間。後の先を奪われ、出鼻をくじかれ、防御もままならない。
最高のタイミングだ。文句のない機先だ。
先程までなら、それで終わりだった。そのまま、青年が吹き飛ばされ、壁に叩き付けられ、昏倒し、力無く伏せる。また1人脱落。
── しかし。
一撃必倒のはず災厄の魔風は、もはや、人ひとりを吹き飛ばすだけの威力も持たない。巨人の鉄槌のようでさえあったその威力は、もはや半分以下に減じられてい
て、相手の動きをしばし奪うだけに止まった。
「── くぅ…っ!」
金髪をたなびかせる魔性は、歯がみする余裕もなかった。また新たに死角より迫ってきた刃に、追い立てられるように回避行動を取る。悠々と、細く艶めかしい女の体をした魔性は、5メートル以上の距離を跳躍してみせた。
── と、立ち回りに見入っていた、利根 涼香の意識を奪うように、男の声が耳に入ってきた。
「魔や神と称される存在が何故恐ろしいのか…
分かるか、涼香?」
斜め前に立つ叔父の、独白のような口調。その、耳に届くぎりぎりの声量が少女への問いだと理解し、答えるまでには数瞬の空白。それを埋めるように、彼女は慌てて言葉をつむぐ。
「えっと、並はずれた霊力をもっている、から?」
あるいは魔力。あるいは妖力。あるいは神威。呼び名はどうだとしても、強大な異能力を有している、という点に間違いは無い。
が、叔父は軽く首を振って、否定。
「それもある。…が、最大要因は、別だ」
含みを持たすように。
あるいは、じらすように。
もしくは、自分の姪に、自ら考える時間を与えるように。
涼香の叔父であるは、利根 康則は、時間をおいて続きを告げる。
「『あれら』は、世界を従えるからだ」
叔父が顎で指し示すのは、3人に囲まれながらも再度暴風を放とうとする、金髪の魔物。
「『あれら』を敵に回す事とは、すなわち、一部とは言え世界を敵に回す事になるからだ」
呪文の詠唱も、契約と基づく呪印も、公式に基づく魔法陣も無く。そんなややこしく面倒しい手段など必要とせず。さも当然のように、手足を動かすが如く、自らの意志と能力だけで風を引き起こす。突風と言って言い程の、季節の境目か嵐の夜でもなければそうそう無いほどの、強力な風圧を。異常現象を。容易く引き起こす。
その在り様は、まさに魔物。
その存在は、人知を越えた魔性。
「世界を従える『あれら』に、真っ向から歯向かうなど、愚挙も愚挙。『人間
如き脆弱な生き物』が、一部とはいえ森羅万象に歯向かうなど…。
例えるなら、釈迦の手の上の孫悟空だ。結果を言うまでもない」
そう、言うまでもない。先程だって、散々に見せつけられた。
難なく蹴散らされ、叩き付けられ、倒されゆく、仲間達。一門のにおいて最強の隊に属する熟練古参たちですら、そうなのだから、『あんなもの』に晒されては、駆け出しの涼香などひとたまりもあるまい。確かに
それを目の当たりにした後で、今こうして考えれば、考え無しに魔性の前に立ちはだかった自分は、ただ軽率この上ないとだけの素人だ。叱られてもしようのない。
── だからといって、この男に頭を下げるような真似をする気は、さらさらないが。
そんな姪の気持ちを知ってか知らずか、叔父は淡々と言葉を続ける。
「── ゆえに、我々の先達はこう考えた。
ならば…『世界を従えさせなければ』、と。
いくら魔といえ、いくら神といえ、いくら強くとも
、いくら無尽蔵と思える霊力・魔力を秘めていても、それは『単体』だ。
単体で群に、個で集団に勝てる道理は無い」
叔父の、あくまで朗読するような淡々とした言葉に、姪は思わずため息。
(滅茶苦茶な理屈ね…)
涼香は、もはや暴論に近い説明に、苦笑混じりの感想を覚える。
確かに、小魚の群が鮫に勝つ事も有るだろう。蟻の群が象を倒す事も有るだろう。しかし、それは何百、いや何千、何万、そんな数の話だ。
蟻が10匹、20匹集まった程度で、象を倒せる訳がない。10匹、20匹の小魚の群れなど、鮫のひと飲みで胃袋に消えるだけだ。
そんな少女の反論を言わせる間も与えず、男は方法論だけを告げる。
「『八ツ裂』 ── 『八限律法』
を用いて、世界を切り裂き、切り抜く」
そう朗々と続ける、彼の真っ直ぐ向けられた視界の中。そこには、黒い影が風に嬲られる木の葉のように舞っている。
悪戦苦闘を続ける魔物が自ら宙を舞って、迫り来る野犬の群のような赤錆びた色合いの刃をかわし続け。間隙を縫うように、次々と魔風を放っている。
「そして、『切り抜かれた世界』を術者との契約に縛られた精霊で満たす」
──
が、それは、全て防波堤に砕ける波のように、剣士達の掲げた赤褐色の刀身の前に、千々と切り裂かれていく。例えるなら、津波の一撃のようであった風圧も、もはや、平凪か細波程に減衰している。
「そうなれば、『八ツ裂』の中の限定的な空間では、── いや『その世界』では、神や悪魔とて、孤立せざるを得ない」
── 長い髪の金。狂気を秘める眼の碧。妖艶たる肌の褐色。そして、交錯する赤朱の色。
「当然だ。その時、『それら』にとって『世界』は従える手勢でも、忠実な臣下でもなくなる。
自らの意に添わぬ、それどころか、むしろ積極的に敵対する、自然の猛威と化すのだ」
── 本来従うはずの世界の小意志に、精霊と呼ばれるモノたちに離反を受け、力を大きく減じられた魔物が。怒りと憎しみに染まった顔で、唾棄するように、何か意味のないうめきのような、呪いの言葉を吐き捨てている。
「手足をもがれ、力を減じられ、そして四面楚歌」
── 時折、朱の色を散らし。徐々に手傷を増やし、血を舞わせながら、狂ったように踊り続ける。
「そんな有様になれば ── 孤立無援の存在となり果てれば、強大な力を持った魔であろうが神であろうが、関係ない」
── 怒り狂い、しかし、消耗して力およばず、徐々に徐々に、人間に殺がれ始めた凶悪無比の強大な魔物。
それを、視界におさめたまま、わずかたりとも油断など見せずに。
「唯の
、一の、『個』に過ぎない」
男はそう、暴論を、目の前の実例で実証するように言いきった。
闘犬と、刀剣と、同じ韻を踏む言葉で渾名される、『頭犬』利根
康則は。
如何なる任務であれど、一つ返事しか返さぬために『走狗』と
さえ揶揄される、少女の叔父は。
利根連座の実働部隊である男衆の内で屈指とされ、多くの鬼を下してきた剣士は。
「ならば、数で押して、勝てぬ道理は無い」
そう、淡々と事実を言うように、言い切った。
暴論であろうと、穴だらけの論理であろうと、それ以上の説得力など、どこにも無かった。
~05
「おのれっ」
「おのれっ」
「おのれぇぇっっ」
シルフィは、ただただ同じ言葉を繰り返す。呪詛のような言葉を。怨念のような声で。
その声のたびに、砂金が流れるようだった澄んだ色の金髪は、振り乱されて荒れ乱れ。
この言葉のたびに、太陽の豊穣を象徴するようだった小麦色の肌は、切り裂かれ、朱の滴りを増やしていく。
「ああ、もうダメだな、あれは」
淡々とつぶやいたのは、うつ伏せに地面に押しつけられている典雅。
誰の目にも明らかな、負け戦だ。
今もなおシルフィが立っているのは。彼女が立っていられるのは、奮闘している訳でもなく、相手が決定打を欠く訳でも無い。単に、無為に動き回らされて、体力と気力を消耗させられている
、それだけだ。
極限まで消耗させて、命を刈り取る。
中世の狐狩りを彷彿させるような、無惨さ。だが、それも嗜虐心のためではないのだろう。彼女の力を甘く見ず、狩るべくして狩り、殺すべくして殺すための前準備
。冷徹なまでの計算の結果。
── 『少なくとも、典雅がシルフィを殺すとすれば、そうして殺す。』
あの、生きた異常気象の息の根を確実に止めるとすれば、そうやって一切の反撃も叶わない状態まで追い込む。
シルフィの操る風は、鉄製の車止めや、公園のフェンスをへし曲げるような、あるいは少なく見積もっても60Kgはあるような成人男子を吹き飛ばすような、とんでもない威力。
巨人が腕を振り回すような、滅茶苦茶な威力だ。ただの一撃で戦局を反転しかねない程の破壊力を秘めているのだから、それも妥当な判断。
だからこそ、典雅はこう断じた。
「もう、死んだな」
シルフィは、怒りと焦りで、平常心を失っている。
相手は、冷静に必殺の型へと持っていっている。
もはや彼女に勝ち目は、ない。
「…また、ひどく冷淡だね」
典雅の上から降ってきた声は、苦笑と言うより、責めるような響き。
「一日二日程度の付き合いとはいえ、君の式神だろう。
それとも、苦労して手に入れた式がこの程度の実力と知って、落胆しているのかい?」
典雅の上に乗って抑えているサングラスの青年に、横顔を地面に押しつけられた典雅は、片目だけでじっと相手を見上げ、
「…というか、さっきから気になっていたんだが…『シキガミ』って、アレだろ?
ゲームとかに出てくるやつ」
至極、訝しげな声を出す。
「…何を言っている?」
眉を寄せる青年に、典雅はさらに続けて、
「違うんか?
オンミョージだっけ、そういう奴の付属品か何かの事なんだろ?
アイツ、自分じゃ精霊だの神様だの偉そうに言ってたけど、実際はただの使い走りなんだなぁ…」
やはり、大言を吐く輩に限って、大したことは無い。そう得心して少年は、深く肯く。すると、押さえつけられた頬がアスファルトでざりざり擦れ
、痛みに顔をしかめた。
「…いや、ちょっと待て…少年、まさかそんな…」
そんな典雅の様子に、何か疑問を抱いた様子で、青年はサングラスを外す。
「うわぁ…なんだ、それ?」
典雅は、驚きの声と共に、現されたその男の目に見入った。
有無を言わさぬほどに鋭く強い眼光をたたえている、右の漆黒の瞳。しかし、左の目は、鋭いどころかもはや尋常の物ではない。左のまぶたの中に収まっていた物は、少なくとも人間の目ではなかった。
── 瞳の色は金、瞳孔の形は猫科生物のように縦長い、異形の瞳。
その人外の目が、典雅の体を、刺すように鋭く睨め付ける。
「……どういう事だ…?…こんな……」
呆然とつぶやき、青年は頭を振る。そして、金色の目を凝らして、再度典雅を注視。
「…こんな……有り得ない……いくらなんでも馬鹿げている」
そして青年は、何か、弾かれたように慌てて立ち上がり、仲間の元へと駆け出して行く。
彼は、先刻まで押さえ込んでいた少年が体を払って立ち上がろうと、背を向けて立ち去ろうとしようと。
もはや目もくれなかった。
</堝15>
|